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2025.05.05 23:54
地球が動いた感想について
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※私は天文学や哲学に関してはまったくの素人です。以下は素人から見た感想になります。
※アニメのネタバレが多く含まれています。原作は未読です。
四月の終わりに気になっていたアニメを消化しようと決めて、チ。を視聴しました。
この作品は原作の一話だか一巻だかを数年前に電子(過去に無料公開されてましたかね……?)で読んで、当時は色々身辺が忙しかったのもあり続きを読まずにいたのですが、主人公だと思っていた人物が早々に物語から退場した衝撃は私の中にタイトルと共に深く残っていました。またアニメのエンディング担当が昔から好きなアーティストということで、これを見ようと選び取りました。
「地球は太陽の周りをまわっている。」
これは私にとっては当たり前の一般教養で、常識で、それを疑う人は現代においてはごく少数だろうと思うものです。
地球は地軸にしたがって自ら回転していて、その上太陽を中心にした回転もしている。だから地球に住む私たちから見た太陽は昇って沈むし、月や星々も動いているように見える。自分たちのいる場所が動いているから景色も動いた分うつっているというだけ、と言えばそれはそうなのですが。
ですが、私たちが立っている大地が今まさに回転していることを私たちが直に感じ取ることはできません。自分の立っている場所が宇宙から見たときに真っ逆さまだとしても、私は自分が真っ逆さまの場所に立っているとは自覚できません。立っている私から見た全ては動いています。
この感覚を踏まえて、中世(近世)における地動説の提唱はそれこそ天と地がひっくりかえるほどの衝撃だったのではないかと考えてみたり。
チ。や史実において地動説は当時のヨーロッパに深く根をはっていた宗教としては色々とマズい発想だったようで、それゆえに裁判にかけられたり激しい弾圧を受けていたよう(チ。作中の弾圧描写はフィクションが多分に含まれているらしい)ですが、宗教的な面を除いたとしても、自分たちのいる「動かない(と思っていた)」大地が実はずっと動いていた、なんてことをすんなりを受け入れられるかと言うと、それは難しいのかも。
しかし私には「動いていないと思っていたものが実は動いていた」事実への高揚感もあります。自分に見えている世界というのは所詮「自分に見えている範囲だけ」であり、自分の認識している範囲の外側には今日までに積み上げられてきた常識をいともたやすく覆してしまうような衝撃のものがあって、それを知ることで自分の持つ世界が一から作り変えられていくことをどうしようもなく楽しいと感じてしまいます。
それは科学的発見かもしれないし、歴史的発見かもしれないし、あるいは感動であるかもしれない。
とにかく、新しい何かを知ることの高揚感に駆られて知を追い求める様は、確かに好奇心の生き物なのでしょう。
ここからは私が本作について何かを思った箇所について数か所、それぞれまとめていきます。
・「不正解は無意味を意味しない」
フベルトさんのこの言葉。これは研究においてかなり重要な言葉であると一番に思いました。
というのも研究というのは科学系も人文系も先人がとなえた説に対する疑問と反証で前に進んでいるものだと私が考えているからです。私は人文系の人間なのでそちらに寄った話になるのですが、何か自分で論考したいと思ったテーマに関連する全ての先行研究に納得することはないんじゃないかと思います。どれかひとつ、何かしら自分の中で疑問として引っかかる箇所があるはず。あるいは自分の論考に対して自分で反論が思い浮かんだり。
そういう「疑問に思った箇所」というのは言ってしまえばそれが自分にとっての間違いであるかもしれないとなるわけですが、仮にそうだとして、その不正解を避けて最新の説に至ることは可能なのであろうかとも思うのです。はじめからぴったり正解だけを選べる人はそういないのでは。
様々な分野の研究史を見てみると、今からではありえないような説がたてられてそれが正しいと信じられていた……なんてことがよくあります。というか、ほぼすべての分野がそうなのではないでしょうか。
例えば心理学における人の性格類型について、ヒポクラテスの四体液説やクレッチマーの三気質(体型で性格を類型したもの)は現代においては間違いであったとされていますが、過去にはこれらが正しいと信じられていた時期があったようです。
例えば文化人類学について、海を越えて世界進出したことで欧州以外の文化を知った西洋の文化人類学者たちは、西洋中心主義的な考えのもとに「文化は進化していくもの。欧州外の文化は今はまだ発展途上で、いずれ自分たちと同じ文化へ進化する」としていました。現在では文化相対主義の姿勢が一般的なので、なんとも受け入れがたい見方。
このように研究史とはたくさんの不正解の積み重ねであるので、不正解を全て無意味と切り捨ててしまうとそれまで積み上げてきた正解への梯子を失うことになるのです。フベルトさんの言葉はそんな研究の核心を突いている言葉だと思います。
そんなフベルトさんの言葉が一番重みを増したのがピャスト伯の回でしょう。
地動説の出現、満ちた金星の観測によって、それまで彼と彼の恩師含め様々な先人たちの天動説研究に捧げた幾人もの人生が水泡に帰すのは、とても耐えられたものではありません。「天動説は間違っていた」というのは、ピャスト伯にとっては「ここまで繋いできた研究は無駄であった」と同義であり、その耐えがたい苦痛とやりきれなさがバデーニさんへ資料室の鍵を手渡すときの涙にあらわれたのでしょう。
ピャスト伯は真理を探究するために天動説を研究していました。ヨーロッパにおける学問研究とはこの世の真理を発見するための手段であり、学問研究を行う上で用いられる「真理」という言葉は、現代の私たちが単に今まで知らなかった・知り得なかったことを知り得るのとは違う重みがあります。あの時代には宗教が深く深く根付いているので、真理の先には当然信仰する神様がいます。これは他の多くの人物にも共通していますが、各々の持つ神への信仰のために世界を知り、宇宙を知り、社会と歴史を変えようとしています。そして、この信仰たちは常に「この世の肯定」とセットなのです。
少し脱線したため話を戻すと、地動説にたどり着くためには天動説とそれに生じる疑問が必要不可欠だったのではないかと私は思うのです。はじめに書いた通り、私たちひとりの人間が地上から見た地球は静止しています。これっぽっちも回転なんてしていません。対して空は太陽も月も星も全てが動いています。そんな世界からいきなり地動説の発想は出てくるのでしょうか。
天が動いていると見えたから、天は地球を中心にして動いている。でもそうだとすると色々辻褄が合わない。何故か。何故なら動いているのは天ではなく地であるから。
人間は自分に見える範囲でしか物事を捉えられません。見えない範囲のことは考えようがありません。見える範囲で捉えた物事が不正解かもしれない可能性に気付いてはじめて見えない範囲を見ようとします。
不正解がなければ正解も見つけられません。だから「不正解は無意味を意味しない」のです。
・「文字は、まるで奇蹟ですよ」
文字が読める感覚についてオクジーくんに聞かれたヨレンタさんの答え。文学好きとしてこの言葉に心躍らずにはいられませんでした。
人の考えや世界というのは、文字にしなければ残りません。逆に言えば、文字媒体にして残すことで長い時間が経ったあとも誰かがその文字を拾い、読んで心にしまう可能性が生まれます。
私は高校生の頃から日本近代文学が好きで、いわゆる推し作家や興味を持った作品について様々読んでいるのですが、そうした文章たちは編集の手がいくらか入っているとはいえ、大元を辿ればとうてい自分が生まれているはずのない遠い昔に書かれたものです。百年も千年も前に書かれた文章を今の自分は読んでいる。文字の形にしか残らなかったそれですが、文字は感動と思考と記録のタイムカプセルですから、文字に込められた想いを抱えて時代を飛び越えることなんて容易いこと。いずれは私のこの文章も、長い年月が経ったころに見知らぬ誰かが読んで心を揺さぶられる瞬間が、もしかしたらあるのかもしれません。
「この時代の人はこんなことを考えた」「この時代の人はこんなことをしていた」「この時代のこの人はこんなことを残した」……後世に語りかける日を待ち望みながら、彼らは文字の中に眠っています。
まるで違う時代の人が同じ空間にいるような感覚。本を開けばそこにいる、文字に眠っていた昔の誰か。長い長い時間と時代の変化による隔たりをひょいと飛び越えてくる魔法こそが文字なのではないでしょうか。
ヨレンタさんが第三章にてドゥラカを通じて本の内容を書きとっているとき、ドゥラカの後ろ姿がかつてのオクジーくんへと変化していく場面は涙なしには見られませんでした。時を飛び越えて著者と同じ空間にいられる文字、かつては自分がオクジーくんへそう伝えたことが巡り巡って自分のもとへ帰ってくる。文字は遠い昔に亡くした友人とも繋げてくれるのです。
ところで文字についての作中の言葉といえば、バデーニさんの「文字を扱うというのは特殊な技能、文字を残すというのは重い行為だ。(中略)誰もが簡単に文字を扱えるようになったら、ゴミのような情報であふれかえってしまう」も印象的でしたね。これはヨレンタさんの言ったこととは反対の性質を帯びているように見えますが、文字を扱う上ではこれも念頭に置く必要があると思います。
識字率が上がり世界中のほとんどの人が文字を扱えるようになった現代、情報社会の中に玉石混合の文字情報が氾濫しているのが実情としてあります。石にしろ皮にしろ紙にしろ電子にしろ、文字に変えて記述した以上はほんの一瞬でも残ります。文字はその人の中身をそっくり詰め込む器であるわけですが、文字を扱う技能というものが広く浸透したことで文字が後世に残る思考の器であるという部分がごっそり人々の思考から抜け落ちてしまった危機感があります。
私にとって文字は声帯、文章は脳、本は頭蓋骨です。一冊の本が、著者の頭。いくつも本を出している人ならば、ある種類の思考の集合体。重くないわけがありません。束になった紙が重いように、人の思考からなる言葉の集まりは重たいものです。しかしカジュアルに文字を扱えるようになったことで、そうした文字の重みはいつしか人々から忘れられてしまった……と思わずにはいられないのですよね。
・「今日の空、なんか綺麗じゃないですか?」「今日のこの空は、絶対に綺麗だ」
第二章の主人公オクジーくんの序盤の言葉と終盤の言葉。「なんか」という曖昧で掴めない表現から「絶対」に変わっているところに彼の成長を感じます。同時に、オクジーくんのこの「なんか」を「絶対」に変えられたのはバデーニさんの存在があってのものなのでしょう。
この二人の関係性が想像以上に深く、第二章を視聴し終えたあとはしばらく呆然とし、またしばらくしてから「もしかしてこの二人ってすごいんじゃ……」と少しずつ気付きはじめ、そうなったころには足が沼に入っていました。地動説ってすごいなあ。
早く天国に行きたがっていた(が、死ぬのを恐れている目をしていたらしい)オクジーくん。かつては好きだった夜空が老いた修道士の言葉によって「天から見下ろし蔑んでくるたくさんの目」に豹変してしまい、現世の全てに期待することをやめてどこにあるかも分からない天国を夢想することで現世の絶望からひたすら目を逸らし続けていた毎日。死ねば天国に行ける(かもしれない)のに誰も満足そうには死ななくて、そうした経験から希望すらもいつしか失ってしまいただ周囲に流されるだけ。そんな彼が過去も環境も階級も違えど同じような絶望と閉塞感の底にいたバデーニさんと出会い、異端者とグラスさんから引き継いだ地動説を通じて自分の意志で何を信じ何を肯定し何を目指すかを見つけていく、そんな人間的成長がなされていて非常に良かったです。
後半のノヴァクらと戦う場面では、今までのように「マジでめちゃくちゃやりたくないけど仕事だから」戦うのではなく、「バデーニさんが安心して逃げられるための時間稼ぎをして少しでも逃亡成功できる確率を上げるために」戦うとなっており、こんな形とはいえ、それまではひたすら周囲の人間に巻き込まれるだけだったオクジーくんが自分の意志で何をするかを選び取れるようになったことが分かります。願わくば大学へ行く夢も叶ってほしかったところ……。
オクジーくんのことを語る際に外せないのが彼を変えたと言っても過言ではないバデーニさん。はじめは傲慢で自己中心的で冷徹となかなか印象がよろしくなかったのですが、作中の言動を追っていくうちに実はどうしようもないくらい不器用なだけで情を切り捨てられない弱さのような優しさを抱えた人というふうにイメージが一変した、不思議な人物です。出会った当初は魔女というトカゲのしっぽにするつもりでいたヨレンタさんのことは尋問の際に徹底して庇い、ノヴァクと直接対決しに行くオクジーくんには分厚いオブラートに何重も包んだ「いくな、死ぬな」を必死に伝え、止められないと悟るやいなやせめてオクジーくんが望んでいた天国へいけるようにと祈りと祝福を捧げ、しまいには彼の日記を残す賭けをするという、なんとも不器用の極みみたいな愛情表現がごろごろ出てきて目が離せません(奇行もするし)。6話で石箱の中身を読んでからずっと楽しそうにしていたところはずっと微笑ましかったです。
この二人はお互いでないといけなかったと私は感じていて、きっとオクジーくんがグラスさんに託されなければ、村に着くまでにグラスさんと別れていたらオクジーくんもバデーニさんもどん底に縛り付けられたままだったかもしれません。
それが地動説とお互いと出会ったことで、オクジーくんは過去のトラウマを克服して好きな夜空を取り戻し、バデーニさんは感動を知って後世にそれを残そうとするようになる。この先叶うかもしれなかったもしもの夢もかなぐり捨てて、それで死ぬことになっても良いと満足できる人生を送ることができたのは間違いなくあの瞬間に出会ったからで。ひとつでも何かが欠けていたら絶対にこうはならなかっただろうなと思えるからこそあの終わりの美しさが際立ちます。足元の板が外れ首を吊られた後に夜空で流星がふたつ流れたとき、きっとふたりは現世のあらゆるしがらみから解放されて真に自由になったのでしょう。大好きな美しき星空の中を漂いながら、生き残ったヨレンタさんを見守っているのかもしれません。
・最終章について
それまで具体的な年号と地域名がぼかされていたのに、突然実在の国(ポーランド王国)が舞台であると明記され、それまでとはまるっきり違う物語が始まったと錯覚しました。
学がないために最終章に登場するアルベルト・ブルゼフスキーという人物が実在した学者でありかのニコラウス・コペルニクスの師であるということを事前に知らなかった私は、最終話ラストで驚きのあまり夜にも関わらず大きい声を出しました。
オープニングもアルベルトに代わった最終バージョンでは今まで登場していた、地動説に魅せられ地動説を繋いだ者たちが一切消えていて、彼らが「歴史の登場人物ではない」ことを突きつけられたように感じて寂しいような気持ちがしました。その一方ではじめはラファウの持っていたネックレスが最後にはアルベルトの手中に現れる演出で、たとえ人々が歴史から消えても人々の繋いできたか細い糸はどこかの誰かに受け継がれる……かもしれないと思い当たり、最終章の終わり方も踏まえてこの作品は歴史に残らなかったもしもの余白を想像し、「歴史」という物語には登場しなかったが「歴史」と呼ばれる世界には生きていた名も無き人々の生き様にフォーカスした物語なのだと、そう考えました。
第一章~第三章と最終章である種の断絶がなされているのは、史実の人物として存在が残っているアルベルトとあくまで架空の存在であるラファウたちのフィクションとノンフィクションの境界線を引くためなのでしょう。
ただし、異端審問官時代に友人を見殺しにしてしまった彼(名前を忘れてしまいました……ごめん!)やラファウ先生、「ポトツキ」の名前など第三章までの世界にあった要素というものが完全に排除されずに残っているのがまだ自分の中で上手く噛み砕けていません。考察の余地しかないのですが、それにしてもどういうことなんでしょうか……特にラファウ先生。明らかに第一章の彼とは違う人ですよね……。単に成長した姿というわけではなさそう。
そして5月4日。
日本科学未来館にて開催されているチ。の特別展に行ってまいりました。
ゴールデンウィーク真っ只中ということで非常に人が多かったのですが、そんなの気にならないくらいに感動にあふれた展示でした。
内容はアニメの物語を天文学の知識と共に振り返っていくもので、アニメを視聴した際の感動を掘り返されるようなゾクゾク感がしました。エンディングムービーは目が足りなかった。
中世にて使われていたアストロラーベを持ってみるものや、天動説・地動説のそれぞれの説における金星の見え方を確かめてみるもの、活版印刷を実際にやってみるものなどチ。の登場人物たちが生きた時代をぐっと身近に感じさせるような体験が多く、違う時代の環境を体験をもって想像させる仕組みが印象に残りました。アストロラーベが意外に重かったです。
展示はアニメの内容を第一章から第三章までちょっとした体験と共に順に追っていく形式でしたが、第三章まで追ったら最終章に移行するのではなく、そこで区切ってエンディングムービーを見て史実の解説へと移行する構成に思わず感嘆しました。エンディングムービーを観るともうそれまでの展示を見に戻ることはできないようになっていて、やはりここでもフィクション(アニメ)とノンフィクション(史実、現在の研究など)での区切りをはっきりさせていて、チ。本編の物語を最終章まで追ったあのときの感覚とぴったり当てはまったのです。見事な構成力に拍手を送りたい。
言葉が上手くまとまらず長い割には拙い感想になってしまいましたが、今回はこれで筆を置きます。
本当は特別展に行ったその日中に感想を書き上げてしまいたかったのですが、予想以上の文量になってしまい時間も遅くなりすぎてしまったため一日遅れました。
もう夜更けですね。夜空が見られたら良かったのですが、私の住んでいる地域では街が星よりも明るくて見えません。 ですがきっと何光年も先から過去の光が届いているはずです。
おやすみなさい。感動に心を焼かれ知を追い求めずにはいられない夢を。