公開投稿

2025.12.22 01:58

1221 sbch R15(はとのちであらえ 草稿)

これの最後からの。途中。まとめて出す前なので推敲ゼロ状態。

 なお、成人男性による未成年男児への性加害を仄めかす描写があります。ご留意ください。)



 あの夏以降、季節の変わるタイミングで柴と千鉱は住む場所を転々としている。姿を見せない毘灼を警戒してのことだったが、十五年山の中で暮らしてきた千鉱の生活環境をいきなり変えたくなかったことと、戦闘訓練を十分に行える場所を確保するためもあって、基本的には人里離れた場所に居を構えていた。

 自分と千鉱の二人きりだけの暮らしになることに、危険を感じなかったわけではない。だが、抑止力を外部にだけ求めることの危うさも柴には解っていた。千鉱を鍛え上げると決めた以上、玉鋼を鍛え上げるが如く、叩いて伸ばして折り曲げて、また叩いて……ひたすらに己の中の不純物を除いていく。柴は彼と密室至近距離で二人だけになっても耐え抜かなければならなかった。

「……言うて、最近、ようよう強うなっとるなチヒロくん……」

 千鉱が用意してくれた風呂に、柴は肩まですっかり浸かる。巨躯の柴でも足を伸ばせる大きさの浴槽は、ここに移り住んできて唯一手を入れた場所だった。壊れていたバランス釜を直すついでに、浴槽自体も新しいものにしたのだ。

 最近ではあまり使われなくなってきているバランス釜を残したのは、かつての六平家が同じ型のものを使用していたからだ。二人暮らしを始めた頃、初めて見たらしいユニットバスに――今ではこちらの方が主流でバランス釜式は日に日に少なくなっていると不動産屋も言っていたか――便利ですねと感心していた千鉱だったが、この家に来て件の浴室を見たとき、表情を和らげたのを柴は知っている。些細なことかも知れなかったが、千鉱にとってまだ遠くない懐かしさを残したものがあれば、柴はそれを拾ってやりたかった。

 本当はあいつ、薪で焚くタイプの風呂が良いって駄々捏ねててん、ドラム缶でも良い~言うて。気分転換も兼ねた、二人での浴室の施工は半日もかからず終わってしまったが、初めて聞く在りし日の父の話に千鉱が穏やかになるのがわかって、柴も嬉しくなった。

 すべてを奪われたあの日からほとんど表情を欠落させた千鉱のなかに、少しでも前向きな感情が生まれればいい。あの穏やかな日々に繋がるものは、柴にとっても大切だった。自分達の関係はあの頃と変わっていないのだと信じるためにも、必要だった。それに、心身ともにリラックスできる環境を整えるのは、千鉱と暮らす上で必須だった。原初性のフェロモンは体を洗うだけで鎮めることのできるものではなく、精神状態と神経の興奮度合に大きくに左右されることは神奈備の研究で判明していたからだ。

 柴も例に漏れず、縁に腕を乗せてゆっくり脱力していく。仰いだ浴室の天井は白熱灯の橙で照らされていて、この色もリラックス効果があるというので選んだのだった。体温と同じに設定した湯の温度に躰と神経を緩ませていくなかで、浴室を覆う湯気に重ねたのは、少年の淡く色づいたあえかな欲望。結界いっぱいに満ちた、未成熟な千鉱のフェロモンのことを考える。

「淵天との相互作用……それか、やっぱ俺の所為か……」

 推察通りなら、淵天だけでなく、アルファ性としての自身も千鉱の玄力のアースになっている。マーキングと称して近い距離で過ごしていた分、千鉱から漏れ出た玄力が柴を通して自然放出されている一方で、柴自身の玄力が千鉱に流入しているのだろう。そうしてなされる玄力の往還が、千鉱と柴との間の玄力の経路を強めているのは間違いない。

 アルファとオメガの関係性について、柴は研究者ではなく当事者としての立場から、他者――アルファ性の強化された玄力をオメガ性が取り込むことで、そのフェロモンが強くなるのは知っていた。これは成熟したオメガに見られる傾向で、しかして、その手段としては性的接触しかないというのが通説だった。発情したオメガが発するフェロモンに触発された性行為、その最中でも強く濃くなっていくフェロモンを嗅ぎ取ってアルファは一層興奮し、神経の興奮に伴い強化された玄力が再びオメガに取り込まれる。爛れきったこの循環構造は半永久的で、オメガが壊れるまで続く。これが身体と神経の興奮が玄力をよく運ぶための手段として、もっとも効率的であるというのは紛れもない事実だった。

 だが、古今東西の妖術の知見を蒐集し、膨大な所蔵量を誇る神奈備の書庫でも見つけられず、戦中の研究調査報告書にすら記載のなかった事実を、柴は己が身をもって知っている。その一つが、未成熟のオメガが発するフェロモンについてだった。

 柴が千鉱を襲ったあの夜のように、あるいは帰宅後の一時のように、未成熟なオメガのフェロモン――擬フェロモンと言うべきかもしれない――は、その強度によってはアルファを酩酊状態に似た、擬似的な発情状態に陥らせることもある。本来であれば、その擬フェロモンはアルファの|本格的な発情《ラット》を誘うほどの質・量ではないはずなのだ。

 あの夜は、しかし、同時に起こった玄力の爆発が柴の鼻をおかしくした。アルファにとってもっとも重要な器官の狂った柴が踏み留まれたのは、目に入れても痛くないほどに可愛がっている千鉱が相手だったからだ。

 だが、もしあの一線で留まれずに、血塗れ泥塗れの靴で踏み躙るようにして、真っ新な千鉱を凌辱していたら。

 考えるだけで、温かな湯船の中にあるというのに、北の果て、極寒の海に落ちたかのように心臓が引き攣る。擬フェロモンが成熟したアルファにもたらす影響について、どうしてこれまで言及されることがなかったのか。その答えを朧気ながら柴は持っている。

 あのまま無理矢理、力尽くであの幼い躰を開いてアルファ性の強化された玄力を巡らせていたら、未成熟なオメガ性である千鉱はそれを契機として初めての発情に至り、真っ当ではない形で成熟を迎えただろうことは想像に容易かった。かつてどれだけのオメガ性が、そうやって心ならずもアルファ性に成熟させられ、文字通り搾取されてきたのだろう。

 だがそれさえも、記録を残すのが常に勝者で在り強者の側であるならば、簡単に因果は書き換えられる。オメガ性の発情が先で、アルファ性は誘われたに過ぎない。甘く芳しい香りを無闇に撒き散らすオメガ性の存在さえなければ、アルファ性は発情することはないのだから、と。

 あの日以降柴が自身を律していられるのは、戦時のおぞましい経験とあの夜の恥ずべき記憶を重石とし、旧友の忘れ形見であるという意識を、手に足に、首に腰に枷としているためだ。身動きの取れない状態で神経をじりじりと焦がすような攻防を繰り返し、結果として柴自身の対オメガ性へのフェロモン耐性も強められているのだろう。この一点の推測だけが柴にとっての命綱でもあった。――しかし。ばしゃり、と両手で掬った湯を被る。

 千鉱はイレギュラーな存在だ。六人の妖刀所有者の原初性はアルファ性であり、実際に刀を振るっていたのは一年あまり。千鉱が淵天と契約して同じ年月が経過したが、いまだに人を斬ったことはない。柴がそれを止めていた。

 千鉱がこれから踏み入れようとしているのは、殺されてもいい人間・殺されるべき人間がほとんどの裏社会だ。相手も相応の殺意をもって応じてくるだろう。千鉱はその殺意に対して刀を抜くことができるかもしれない。振り切った刃は相手の首を遠くに飛ばすかもしれない。

 ――しかし、殺されてもいい人間はいても、殺してもいい人間はいない。人の命の軽重を判断するようになった時点で、同じ穴の狢であること――自身もまた殺されてもいい人間であることを自覚しなければならない。すべては鏡、自身に跳ね返ってくるのだ。因果応報ではなく、因果はすべて同じ像に集約される。

 千鉱にその自覚をさせることが、鏡の中に、洗い流すことのできない血に塗れて映る彼自身を知られてしまうことが、柴にはまだできなかった。できれば伸ばし伸ばしにして、その間に柴一人で決着をつけてしまいたかった。父親の形見である妖刀で、人を殺すという経験が、千鉱の心身にどのような影響を与えうるのかも予想がつかない以上、できるかぎり。はたしてそのとき、オメガとしての千鉱、否、千鉱のオメガ性はどうなってしまうのだろうか。柴にはそこに不可視の一線があるように思われた。

 十五の子どもに、知らなくてもいい、人の殺し方を教える。そう腹を括ったのは柴自身。まともな大人ならしない決断だった。まともじゃない、そういう意味では大人になりきれてもいない自分だからこそできてしまった判断だった。思い出すのはあの夜の翌々日、千鉱と一日ぶりの再会を果たしたときのことだ。

 真夜中に薊を呼んだ後、千鉱が起きる前に柴は家を出た。自分以外の、潜在的といえどアルファ性を有する男を千鉱の側に置いて離れることに躊躇がないわけではなかった。自分のものを奪われたら、もし番になったら、そうでなくても万が一のことが起きたらと過った懸念は、だが、痛む首筋の傷で抑え込んだ。その首筋から流れる血も止まらない間に、千鉱の元に戻ることになるとは思っていなかった。電話口の向こうの薊の渋面が目に見えるようだった。

 薊から充分に話を聞いているだろうに、千鉱は全く変わらずに柴を出迎えた。千鉱の血の眼が自身を真っ直ぐ映すのを認めて、柴は光を絞るように眼を眇めた。まだそんなものをつくる歳でもないのに、目の下の隈が濃くなっている気がする。薬で無理矢理に眠らせるだけでは不十分で、加えてこれからのことを考えるので眠ることができなかったのだろう。

 自身に起因する千鉱の不眠の理由に、柴は到らぬ自分に嫌気が差した。ただでさえ不安定な状況の子どもに、大の大人が要らぬ追い打ちを掛けてどうする。額を側の壁に打ち付けたくなったが、ぐっと腹に力を込めて堪えた。

 見上げる眼をそのままに、ちらりと首筋に視線を走らせた千鉱は、幾度か口を開閉させて、……お帰りなさい。小さく細い声と微かな緊張とを縒り合わせて紡がれた言葉に、何と言っていいのか柴も戸惑うも、結局はただいま、と相応に返した。そんな風に千鉱から言われたのは、当たり前だが初めてだった。柴の返事に、千鉱がはい、と安心したように息を吐いて、あぁこの子も緊張していたのか、それに気づけなかったのか。柴はまた自分が情けなくなった。薄く張り付けたガーゼの下の幼い噛み痕がじぐりと熟んだ。

 戻ってきた仮住まいの、襖一枚の向こうに国重がいるのを思考の隅に留めながら、柴は卓を挟んで向かい合った。まだ充分に冷えていないけれど、と真新しいコップに注がれた麦茶を出されて、柴は礼を言うしかなかった。かつての平静を保とうとする幼子の努力を無碍にすることなどできない。乾いた喉に通した麦茶は味がしなかった。何から言えば、聞けばいいのか、思考を二三回空転させてから、柴は無難な話題を選んだ。

 ……薊は、帰ってしもたん? はい。……凄く心配してくれましたけど、俺が大丈夫だからと。チヒロくん、あんな。あの夜言ったことは、変えません――俺は、柴さんから教わりたい。人の殺し方も、この躰のことも、全部。

 ――全部です。

 差し障りのない会話を振り切って、千鉱は真っ直ぐ柴の心臓を掴みに来た。目標が解っているのならば最短を行くことも一つの手だ。千鉱の性格を考えればそうするだろうことも予想はしていた。だから、柴は一直線を来た彼の要望をそっと両手で包み込んで留めた。

 アルファの……俺の危険性聞く前やろ。六平かてそのあたりよう話しとたとは思われへん。

 まだ年端もいかない息子に、お前を可愛がってくれているおじさんは、いつかお前を襲うかもしれないぞ、などと言えるような男ではない。豪放磊落、明朗快活そのままの男ではあったが、そのあたりの分別は充分に有していた。

 君は本懐を遂げる前に、貞操に気ぃつけんとあかんようになる。それがどういう意味で、どんだけいらんストレスになるか、わからん年齢でもないやろ。俺が俺を信用すんなって言ってるんは、冗談でも何でもあらへん。チヒロくんの信頼は、素直に嬉しいよ、でも、君が君である前、俺が俺である前の部分での話、そういうことなんや。違います。え? 知った後ですよ。柴さんが……俺を、押し倒した後です。……チヒロくん、な。はい。その後、俺が君をどないしようとしてたんかももう薊から聞いたやろ。えぇ。俺を無理矢理犯して番にするつもりだったってことでしょう。それなら問題はありません。――っ君は、何言うて。

 あんまりな放言に、問題がないわけないだろうと柴が気色ばむと、千鉱は唇を真一文字に引き結んだ。柴を見据える眼に揺らぎはなく、発言を取り消すつもりはないという意思表示に、柴は卓に身を乗り出しそうになったのを堪えた。

 千鉱は自身の抱える悩みや疑問を、理路整然とした思考と落ち着いた言葉で他者に開示することに長けているし、他者の意見を聞くことにも素直だ。だが、一度自身の中で完結させた決意については別だった。少年特有の万能感と無鉄砲さとは異なる、それはもう千鉱が物心ついたときからの性質と言ってもよかった。この短い間に彼の変えることのできない決意を二度も突きつけられるとは思ってもみなかった。

 初志貫徹、千鉱は一度決めたことはけして曲げない子だった。国重が研ぎ師の元に朝から出かけて昼を過ぎても戻らなかった日、「とーちゃと」と昼飯に頑なに手を付けることすらなかった三歳の頃。小さな腹の虫が盛大に鳴り出しても、おなかとお背中くっついてまうでと心配しても、きゅっと下唇を噛み締めて、ちいろのおなか、くっついてないよと薄い腹を押さえて空腹を我慢する姿に耐えられなかったのは、泊まり込みで様子を見に来ていた二十四歳の柴だった。

『ちょっとここで、お歌一……二回歌うぐらいの間だけ待っとってくれる? 柴さんすぐに戻るからな』

 言い置いてすぐさま国重の元に飛び、彼を小脇に抱えんばかりの勢いで家に連れて帰った。待ちわびていた父の顔を見た、そのときの千鉱の顔といったら。世界真っ暗お先真っ暗んときに天岩戸から天照さんが顔を出したときの神さん連中の気持ちがわかってん、と後日思わず薊に語ってしまったほどだ。

 ――本当に、千鉱の芯の部分は変わっていない。それなのに、淵天との命滅契約といい、柴に教えを乞おうとすることといい、その変わらぬ芯の部分を嬉しく思えない状況が歯がゆかった。父親譲りの赤眼が変わらず真っ直ぐ自分を映すのが嬉しく思えて仕方がなかった。その眼の奥の、鉄を打ち爆ぜる綺羅の火の輝きとは真逆の、土に埋まりながらもなお煌々と燃える火の昏さを見て、この子はまだ生きる気力があると、そう安堵してしまう自分に反吐が出た。

 この子は、生きようとしてくれている。それがどれだけの幸福か。生きながらにして死んだ、あの日の国重の姿を思い出してしまった。生きながらにして殺され続けた、あの日の年若い部下の姿を思い出してしまった。

 千鉱は、生きようとしている。

 舌打ちしたいのを抑えて、柴は視線を切った。少年の昏い熱が自分にも移ってしまう前に、まだ頭の冷えている今のうちに、距離を取る最善を選ぶ。チヒロくん、な、俺は君を犯したなんてないよ。わかっています。でも、俺は君を犯すかもしれへん。……わかっています。んや、わかっとらんよ、チヒロくんは、昨日俺が引いたからその先を知らんだけ。この間だって、俺はあのまま君を無理矢理犯して、最悪孕ますこともできた。はらます、って。

 柴の物騒な物言いの中に表れた、直接的な性を想起させる言葉への困惑と、自分は男なのにという戸惑いとを入り交じらせて見せた千鉱に、柴は薊が伝えきれなかった部分を知る。

 全部を伝えると言っていたのにとは思わなかった。オメガ性を顕現させても身体性的に未成熟な千鉱に面と向かって、今君の一番近くにいる男は、無理矢理君の下半身を剥いて開いて汚い雄の肉欲のままを何度も何度も真っ新な躰のなかに射精して、望まぬ子を宿させるかもしれない変態なんだ、なんて言えるはずがない。犯すかもしれない、と言うだけとて覚悟の要ったことだろう。ならばここが腹を括る正念場だった。柴は再び、しかし今度は雄の顔をして千鉱を見据えた。今目の前にいるのは己の種を飲み込ませることのできるか弱い性だと、下劣な眼を愛し子に向けた。

 夏場でも、千鉱はほとんど肌を覗かせない。付き合いの長い柴でも、物心ついて以降に半袖の彼を見た記憶はほとんどなく、今も若い四肢に暗色を纏っていた。だからこそ、剥き立ての桃のように白く甘い首筋に自然と視線が吸い寄せられる。渇く口内を一舐め、喉を上下させて、生唾を飲み込んだ。

 ――オメガは、アルファの子種を腹に受けて孕むことがある。男・女いう別より先にある性や、やめてくれ言う君のその薄いお腹んなかに、俺の子どもができるかもしらんくて……そういうこと、チヒロくん、全然想像できてへんやろ。もっとわかりやすく、直接的なこと、言おうか。

 少年の成長途中の細い躰の稜線を舐るようにして、ゆっくり品定めの目線を下げていく。伸びた背丈は男に遠く及ばず、太くなった腕も二回りは細く、両手首は片手でまとめて押さえ込める。空いた片手で下肢を暴き、そうして。

 卓の影に隠れた未成熟の――未精通の下半身の部分に、熱を留めるように視線を止めれば、千鉱が躰を強張らせるのがわかった。教科書に載っているような最低限で常識的な性知識は持っているのだろう。父親と同じ年代の男が、お前に欲情して性器を勃起させるのだと口にしたことに、おぞましさを感じないほうがおかしい。ましてや家族以外で一番身近にいた存在から向けられるはずもない、白濁の欲に塗れた眼差しへの嫌悪は、これまで下世話な性の話題とは無縁の生活を送ってきた千鉱には当然の反応だった。――その嫌悪も抵抗も何もかも、アルファとしての柴には無意味なものだ。

 獣臭い息を吐いて口を開くより前に、言わないで、柴さん。語尾を震わせた声に乞われて、やめた。否、その言葉を聞く前に、千鉱が耐えきれないように眼を伏せた様が、柴の喉を締め付けた。

 赤子の頃から可愛がってきた子に、側に置いておくには危ない人間だと認識された。それがわかる、十五年来一度も聞いたことのない声だった。