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2024.08.14 10:00

謙徳公・藤原伊尹の娘たち(2)次女・為光室

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次女・本名不明(母:恵子女王、為光室、946~953頃?-985)


 伊尹の異母弟・為光の後妻となった女性で、史料などでは「為光室」と記載されますが、本名はわかりません。

 為光というと、四納言・斉信、花山帝女御・忯子の親ですが、彼女は彼らの生母ではなく、後妻つまり継母です。この次女が生んだのが百人一首歌人でもある藤原道信で、ほかに数人の子女を生んでいます。


 後妻ではありますが、先妻(小野宮の娘で、佐理の妹。病没したらしい)の子どもとの関係は悪くなかったようです。妊娠した忯子を見舞うために、夫婦そろって内裏にでかけるなど、細やかに面倒をみていたことがわかります。


 彼女の生母は明記されていないものの、この見舞いのときに使用した輦は准三宮という高い身分である恵子女王の特権であり、密かに為光が娘と会うために妻である次女を通して都合してものと見られています。恵子女王は実の娘だからこそ、融通したのだろう、ということです。

 と考えると、伊尹が弟・為光を可愛がると同時に縁戚関係を強く結ぶことで、自分の権力基盤を確実にしていこうと動いていたのかななんて感じがします。


 彼女は和歌などを残しておらず、子女たちの日記なども現存していないため、その人となりは伝わっていません。


 しかし、為光との仲は円満であったと見てよいかと思います。実子である道信、公信の性格から考えると、人懐こくて明るい女性だったのではないでしょうか。異母兄である斉信は、異母弟妹の面倒をよくみており、異母であれば関係の遠い当時のきょうだい事情を鑑みると、異母兄姉たちとごく近しく育ったことが想像されます。

 また、道信の歌才は祖父・伊尹の血筋を受けてのもの、ともいえるかも。


  彼女が伊尹から伝領したのが一条第であり、のちに「長徳の変」の舞台となり、詮子によって一条天皇の里内裏となった邸宅です。彼女自身は歴史上大きな働きをしたわけではありませんが、その娘たちは伊周と道長の権力争いに決着がつくきっかけとなったあたりドラマチックです。残された子どもたちの運命も悲劇性がありますね。


■子女

(1)道信(為光三男)――(972-994)

 兼家の養子として元服。婉子女王への懸想で知られる。公任や実方など、当時トップクラスの文人たちとも仲が良かった。家集『道信集』があり、人となりに触れられる。

(2)公信(為光四男)――(977-1026)

 為光の死後、斉信が後見したと思われる。斉信に可愛がられたらしいことが『栄花物語』で窺われる。また、『枕草子』にも登場し、「猛暑における平安貴公子、自宅でのだらけ方」を現代に伝える。『大鏡』には、拗ねた隆家をフォローしたらキレられた話も。斉信より早世し、遺児は斉信が養女とした。

(3)三女――(974頃?-不明)

 美貌だったため為光に后がねとして大切にされたが、父没後、伊周が通うようになり「長徳の変」が起きた。のち、落飾。一条第は伊尹次女より、彼女が伝領した。邸宅を売却後は、妹とともに道長の嫡妻・倫子の住む鷹司第に同居し、「寝殿の御方」と呼ばれた。倫子の父・雅信の妾という資料もあるが、おそらく間違い。

(4)儼子(為光四女)――(976頃?-1016)

「長徳の変」のもうひとりのヒロイン。彼女に花山院が通ったため、伊周側が誤解して矢を射掛けた。花山院の死後、道長に請われて倫子の元に出仕し、姉とともに鷹司殿に住む。入内する妍子の上級女房を考えていたらしいが、道長と関係ができたため、そのまま妻として生活。出産により死亡。

(5)穠子(為光五女)――(979-1025)

源兼資妻。兼資は行成と親しかった文官で、兼家の妾妻・対の御方の甥にあたるが、二十代前半に死別。その後、道長の愛人となり、子どもをもうけ、妍子の上級女房となる。公信と同じく流行病で亡くなった。