公開投稿
2025.02.03 03:39
節分のこと。鬼、邪気、人間。
昨日は節分だった。家人が豆撒の用意をしていたけれど、おうちの中が散らかるのもなぁ……ということで20粒? 程が入っている豆の小分けパックをそのまま投げた。パックごと投げた。「なんやこれ」って雰囲気のまま豆撒は終了、投げたパックを拾い集めて恵方巻と一緒に食べた。
夕飯にはけんちん汁も食べた。関東では節分にけんちん汁を食べるらしい。私は生まれも育ちも大阪なのでいまいちピンと来なかったけれど、家人は関東出身なのでそれが当然だと思っていたそうだ。ちょっとしたプチ異文化交流のようで、こういった些細なこともまたおもしろい。
実は朝の内に、せっかくだからそれらしい、節分をテーマにした句をつくってSNSにUPしたいな~とぼんやり考え、そのまま句作を始めた。
最初は極々シンプルに、一般的な豆撒の様子や邪気を払おうとするひとびとのいとなみ・文化を句にしようと思っていた。けれど、句を練っていく内に「何かがおかしい」と妙な違和感を覚え始めたのだった。
追儺の儀式は本来まつりごとに関わるものなので、災いを払おうという姿勢は理解出来る。歴史上、そういった姿勢がないと国は長続きしなかっただろうし。
民間の家々で豆撒が行われたり、戸口に柊を挿して邪気を払おうとすることも理解出来る。すこやかに、おだやかに暮らしていきたい。人間のささやかな願いだ。
それでも。
「鬼」とは一体誰を指すのだろうか。「邪気」の正体は何なのだろうか。そんなことは、きっと誰にも分からない。分からないまま、「何か」を払う。まじないをかける。その「何か」は、人間にとって都合の悪いものであるのだろう。
かつて源頼光たちが「鬼」を討伐したが、それは都にとって「不都合な存在」の討伐であった、という一説がある。
不都合な存在、権力者にとって「払いたい」存在。あるいは、人間にとって「邪気がある」と思われるような存在。
それらを退けようという姿勢が生まれること自体は理解出来るけれど、共感出来るかどうか、納得出来るかどうかは別の話だ。
例えば、現代で言うところの「社会的弱者」や「マイノリティ」といった存在は? もしかしたら、彼らも一部の人間にとっては「不都合な存在」かもしれない。「払いたい」と思われることがあるかもしれない。
念のために記すが、私自身がアロマンティック・アセクシュアルという「セクシュアルマイノリティ」当事者である。ありがたいことに、私は退けようとされた経験も差別的な言動を受けた経験もないが。しかしそれは単に私が周囲のひとびとに恵まれていたというだけのこと。社会を見るに、苦痛を覚えている「マイノリティ」当事者の声は後を絶たない。というか、そもそもこの「マイノリティ」という言葉が存在してしまっていることが差別的でもある。ただし便宜上そう表現する必要がある場面は出てくるため、神経質になりすぎた結果の言葉狩りのような事態は良くないよなぁ、などとも思う。悩ましい。
話を戻そう。
もしも「鬼」が、ただ「誰かにとって不都合な存在」なだけなのであれば。
もしも「邪気」が、そう信じられているだけの名前すら朧気な「何か」なのであれば。
私はきっと、素直に豆をぶつけることは出来ない。素直に柊を挿すことも出来ない。だって、「それ」が何者なのか分からないまま、なんとなく怖い、奇妙だ、自分たちとは異なる、不都合だ、という理由で「退けても良い」とは思えないから。少なくとも私自身は、そういったことはしたくないな、と感じるから。
歴史上の文化として、ひとびとのいとなみとしては理解出来ても、現代を生きている生身の「私」の心の在り方からはズレがあって、そのズレが違和感を生む。
この違和感を論理的に説明することは可能である。しかしそういった違和感も句に託して生きていく。そんな道を、私は望んでいるのだろう。
これまたとても、身勝手に。
それでは、今回はこのへんで。
今年はゆるゆるっと無料公開記事も更新していきたいな、と改めて思ったりしたのでした。
ちなみに節分に食べた恵方巻は私が「アボカド&サーモン巻き」、家人が「キンパ」で、なんかもうなんでもありやな。それもおもろいっちゃおもろいけども。
yacca.