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2025.01.25 13:27

2025.01.19 演劇ライチ☆光クラブ観劇 感想

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■筆記前提


・漫画「ライチ☆光クラブ」「ぼくらの☆ひかりクラブ」は何年も前に読了、観劇直前にはあえて読み返していない(内容は覚えている)

・他歌劇、映画などは見ていない(演劇ライチを最初に見たかったから)

・観劇座席ぴったり中央・真ん中より手前側

・観劇回数 筆記時は現地1回のみ


 以下に続く感想は肯定的な内容のみで構成されておりますが、それは筆者が『おおよそ目当てにしていたもの』を、観劇体験によって最高の形で得ることができたからです。

 この感想は自身の得た要素を整理・記録するためにまとめております。


1.観劇前について

2.脚本・演出・舞台機構について

3.各キャラクターについて


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1.観劇前について


 第一に、牧島くんのファンであり、演劇ライチが決定・告知された時は、2日間ほど夢見心地で「牧島ゼラが見れる! 嬉しい! 最高! ヒャッホー!」とずっと浮かれていた。これは単に牧島くんのファンだからというのもあるが、牧島くんの2023〜2024年の出演作を観劇していた影響が大きい。

 キングダム、セトウツミ、剣聖、ドクター皆川、季節はずれの雪、スプーンの盾(2023)、ハムレットQ1、HYPNAGOGIA、ストーリー・オブ・マイ・ライフ(2024)……列挙した全てを現地観劇していたが、この要素が期待値を上げていた。

 キングダム・スプーンの盾・ハムレットQ1、HYPNAGOGIAあたりは特にだが、牧島くんの所謂「光の男、カリスマ、人を惹きつける、帝王」など、自身の輝き・相手をしっかり見て見られた側を引っ張るといった役どころだった。これはひとえに、牧島くんのよく通る艶めいた発声の引力が強く、芯が通った演技が上手いと私は感じている。

 反面セトウツミ、季節はずれの雪では、鬱屈としたものを隠すのが非常に上手く、隠されているのに匂わせる演技が、客席の胃の内側をソワソワくすぐってくる。爆発寸前の限界さ、そしてそのためにためていた火種が握り潰される可哀想な男、いつちぎれるかわからない正気の綱を軽く握っているだけの男……そういったものを味わった。この二作では、ある意味その彷徨っている牧島くんの役の手を引く誰かがいたから良いのだ。それが、ライチでは居ないことを私は知っていたので、期待値が爆上がったのである。

 牧島くんは、役のキャラクターに対して演技によって圧をかけるのが上手いと思っている。追い込み方が顕著に感じられたのがストーリー・オブ・マイ・ライフ(2024)で、以前別で感想を認めたが、自ら薄い氷の張った川に飛び込んで必死に手放した大事なものを探す男……という印象を演技で受けた。追い詰められつつも、破滅できない・正気を手放せない……そういう状況を演技で表現されたので、その緊張感から大いに満足感を得ることができた。ストーリー・オブ・マイ・ライフにとって、その「追い詰め」とは相手がいかに大切だったから生じたのだ、ということがわかるからだ。

 牧島くんは舞台の上で、王者にもなれるし、居所のない弱者にもなれるし、誰かを救うこともできるし、誰かに救われることもできるし、傷を隠している人間を生きることもできる技量を持っている役者さんだ。それを2023年から2024年の観劇で知っていた。その上で、廃墟の帝王ゼラを演じると聞けば、立ち上がって叫ばざるを得ない。ゼラ! ゼラ! ゼラ!


 牧島くんのファンである理由の一つに、単純に出演作が私の好みの脚本・演出であるという点もある。面白そうな舞台に出る人だから追いかけているのだ。きたやじも当然見に行く。歴オタなものでね。

 そのうえで、演劇ライチが決定した後、小西くんによる谷さんへの評判を聞き及んだり、各種インタビューを追いかける中で「演劇ライチは小劇場系のがっつりストレート」「原作漫画再現ではないがリスペクトがある」「キャラクターの背景掘り下げをしている」という三要素を把握した。これも期待値を上げた。

 何故なら観劇直前の私は、舞台化するなら必ずしも既存の作品を真似ないし再現しようとしなくていいと思っていたからだ。過度にアニメ声優に、演者が発声を寄せたりしなくて良い。生身の人間が板の上で演じるのだから、浮かないことや、舞台でやる意義が欲しいと考えている方のオタクである。

 演劇ライチは、その個人的な要望に完全に合致する気配があり、観劇1週間前あたりからソワソワしていた。そして私は観劇後、完全に期待したものを得たのである。故に、この感想は肯定意見しか出ないのだ。


 別の役者さんの話も。小西くんは刀ミュで、中山くんは映画刀剣乱舞で知っている演者さんだ。事前のX上スペースで、演出谷さんが話に上げていた岐洲くんに関しては、出演作をまだ見たことがなく、ニコ生(有料分含む)を見た時に「だいぶ面白い男だな……」という印象だった。

 手袋さんこと小西くんに関しては、刀ミュ時点で既に演技路線が好みで、ニコだと分かった時は「小西くんのニコは大正解すぎるでしょ!」とこちらも大はしゃぎした。絶対に期待を裏切られない確信があった。小西くんの生み出す、殴れば凹むが決して割れない、そんな柔い硬さが好きだ。

 中山くんはライチ決定後からXをフォローしたり、生配信を見たりしているのだが、思慮深い方で原作ファンということ、そしてビジュアルの完成度から、こちらも大変楽しみにしていた。

 岐洲くんに関してはニコ生で得た「おもしれー男」が、幕が上がってからその発声で完全にタミヤを作り上げる一発を喰らうことになるのだが、この時点ではまだ知らない。ニコ生だと座っていたので、そのシルエットの美も知らなかったのだ。


 前提状況で二千字も使ってしまったが、私がどういう立場で感想文を認めているかは、理解していたほうが読む時に納得しやすいと思う。それに、自分の記録としても、当時の状況を感情導線として覚えておきたい。

 何が言いたいのかと言えば、私はほぼほぼ心構えができた状態で演劇ライチを観劇したのだ。期待した方向の通りのものを得ているというのは重要だ。私個人がSNSで見かける、演劇ライチへの不満というのが、「期待した方向ではなかった」ことに起因しているからだ。

 基本原作ありタイトルは、期待の方向性を持たない方が受け止めやすいことを私は理解しているが、今回は期待の方向を固定化しても大丈夫だと判断できる情報を、私は持っていた。情報収集もしていた。期待の路線に合致した上で、それを超えるクオリティを受けた。

 そういう人間がこの感想を認めている。以降、中身に触れる感想へ続く。


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2.脚本・演出・舞台機構について


 客席に入ってまず感じたのは、「演劇ライチもしかしてめっちゃお金かけてる?」である。舞台セットのディティールが良すぎて圧倒された。本当に素晴らしいクオリティで、質感がよく一目で感動した。この上に人間が立ち回れば、話や演者が浮くようなことはないだろうと確信できた。この時はまだ、廃工場のディティールに感動するばかりで、散りばめられている台所などの要素に違和感を持っていなかった。クライマックスあたりで「なんてことしやがる」の強烈な美につながる配置だと、理解していなかった。

 私の席は本当にど真ん中で、しかも座るとゼラの椅子と目線が合う位置だった。舞台全体が視野角に収まる最高の席で、私は観劇することができた。私は眼鏡をかけても視力は回復しきらないので、どうしても表情をつぶさに見ることはできないが、基本オペラグラスは使わない。今回の席も表情を完全に捉えることはできなかったが、役者の声の演技が自然かつ明瞭、体の動作で演技を感じることができたので、そういった意味でも「見えやすい演劇」だった。


 冒頭でゼラとジャイボのいちゃつきの背後で、侵入者を追いかける声がたくさん聞こえてくるシーンの引き込み方は興奮した。漫画冒頭で重要なそれぞれのポジションを、スマートにまとめ上げていると思った。

 ゼラの前に光クラブのメンバーが円形に並ぶ後ろ姿を見た時、顔が見えていない段階で「彼がタミヤだ!」と一瞬でわかる体格・姿勢の良さ、真っ直ぐな背中が見せつけられたのも良かった。この背中が非常に印象的で、その後の各メンバーとの差の話になる時、説得力が強かった。平面的な絵ではないのに、その立ち姿で人物背景の説得力を持たせる「絵になる場面」だった。漫画では、タミヤは背の高い方だとわかるが、とは言え年相応の細さがある。それを生身の男性が演じることで、彼の育ちを印象付けていて非常によかった。

 その印象の直後に、皇帝ゼラの立ち姿の美しさたるや……というインパクトがあった。私はそれを真正面・アイレベルほぼ一致の場所で見ることができたので、タミヤが背面の美なら、正面の美は皇帝ゼラだと対関係が印象付いた。スラックスの縦ライン、真っ直ぐ伸びる背筋。そんなゼラがみんなを見下ろしている中央の台座は、クライマックスで引きずり降ろされ、ようやくタミヤと横並びになった時、常川として丸くなった背筋との差の対比に生かされることになる。タミヤの背はずっと伸びていたが、ゼラはそうではないのだ。


 今回、脚本・演出で特徴的なのは「個人の背景情報の掘り下げ・改変と相関図のアップグレード」だろう。情報の追加・悪化によって、光クラブがセーフスペースとして役割が明確になっている。これは生身の人間がストレートの舞台として演じるにあたり、浮かせないという点で個人的には正解だと思う。

 漫画は絵であり、コマであり、地続きの場面ではない。その隙間を生身で埋めようとすると、必ずキレが損なわれる。兎丸先生の美しく特徴的な絵によってもたらされた説得力は、生身の人間で「再現」は難しい。でも方向性を合わせた上で、「生身でやるなら」の美を追求することはできる。

 ゼラの思想を空っぽだというタミヤ、紙面ならわざわざ指摘する必要がなかったことを、生身によってもたらされる「現実感のなさ・浮き」を演出に組み込むことで、舞台の上に降臨させている。ゼラ・常川両面が出ている場面の格好悪さ、ちょっとした恥ずかしさのようなものを、タミヤや光クラブのメンバーの関係性が、ゼラをゼラたらしめている。ちょっと面白いかも、というセリフを面白いままにさせない。ダサくさせない。劇的な言い回しを、生身の人間から浮かないようにしている……そういう「浮かなさ」が徹底されていた。それは漫画作品に対するリスペクトだと考えるし、ストレートの舞台における「最適化」だとも思った。

 事実、キャラクターの死に方に関して、ほぼ徹底して漫画通りなのは圧巻だと思った。尊重があった。ゼラの便器のシーンだって、漫画だったら飲み込めるけど、現実では飲み込めないものを、現実的に落とし込んだ上で、重要な腹の中を見せてのけた。

 水の演出、血が吹き出す演出も圧巻だった。久しぶりにこの手の舞台機構の舞台を見たが、素直に楽しい。水の演出に関しては、クライマックスでやるのかな〜とか、赤ライトと水で鮮血演出とかかな、なんて観劇前は考えていたのだ。タミヤが撃ち抜かれたシーンで派手に赤インクを浴びるゼラを見て「観客にかからない位置とわかった上で、しっかり真っ赤にしてきたな……」と感動したものだ。カネダの逆パカも「そうやればいいんだ!」と感激した。舞台の上で、現実感を持たせた上でフィクションを作り出すやり方は、いくらでもあるんだと感嘆したものだ。

 ゼラなんて、あんなに水浸しで転げ回っていて、マイクがどうやって保護されているのかさっぱりわからない。水に足を取られて転ぶ演技が見事すぎてハラハラするが、工夫されているから演技で転んでいるのは間違いない。その上で見ている側は緊張感がある。腹からモツをこぼれさせて、片腕なくしたまま最後挨拶をする推しを見る気持ちを表現する言葉は見つからないし、マチネソワレやってる(やれている)意味がわからない。どうなってるんだ。大千穐楽で挨拶とかやるのかな? どうなんだ?

 ゼラが灯油を巻く場面も、はっきり液体が溢れているのが見えて、フリじゃないことに感動した。舞台機構のディティールに合わせて、舞台上でものを食べるではないけど、消え物的な演出が徹底されていてよかった。


 子供常川くん、最初過去回想で出るくらいなのかなと思っていたら、ずっと舞台上に現れて驚いた。私が見たのは加藤くんの回だったが、刀ミュで見たことのある子が、あの常川くんになっていて驚愕したものだ。しかもすごく上手い。ゼラの妄想として現れる常川くん、そして過去にいたであろう子供らしい常川くん。ゼラが手放せず、消せなかった常川くんの正体は、「絶対的な安心感への渇望」なんじゃないだろうか。それは言い換えれば「母性」であり、ゼラが失った家庭から与えられる安心なんじゃないだろうか。

 そう考えた時、常川くんの存在は非常に重要に思える。今回の光クラブの常川以降のメンバーは、もしかしたらゼラが呼んだのではないかと思わせる余白が生まれる。それか、ゼラが呼んだ子が他の子をここなら大丈夫だからと呼んだのではないか。そんな絶対的な安心感を持たない子供たち。その対比が、絶対的な安心感を家庭に持っているタミヤなのだ。

 常川くんは元は与えられる側だったのに、母親によって求められる側になった上で、母親の求めに応じ切ることができず、母親を失った。個人的に「母親に救済を求められる立場」というものに経験があり、私は常川くんに同情的にならざるを得ない。その上でこの舞台は、そういうトラウマ的な事象を呼び起こすのではなく、「あの時、親の求めを許容できないと感じた心を認めてもいいのだ」という安堵を覚えた。演劇ライチの絶妙なところは、ともすれば客席に経験があるかもしれない観客を、キャラクターたちと同じ視点には持ってこないところだと思う。徹底的に俯瞰させている。

 私たちは、子供たちによって作られたセーフスペースの箱庭を覗いていた。そして「現実的に」、子供に子供は救えない。タミヤが言い負かされる場面の通りなのだ。だから、この光クラブは破滅する。そういう説得力が細やかに生み出されていた。

 常川くんの子供らしい、母との鍋のやりとり。あの場面をゼラを挟んで演出するの、散々ゼラを追い込んだ後に現実の記憶として再現されるのは、キレがあって最高だ。その上で、その後母の象徴である台所と母の妄執に挟まれて追い込まれるゼラの絵は、素直に酷い、なんてことするんだ! と思った。徹底されていて素晴らしい。舞台セットの中央にあるゼラの椅子、下部左端の台所、舞台下部右端に立つ常川くん。そんな三角形の中にいるゼラ。ゼラとは何者かと考えた時、舞台機構にかなりの高低差があり、その中央中心あたりにゼラの椅子があることは、構図として美しい。どこまでも囲われている。


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3.各キャラクターについて


 ゼラの過程環境が顕著だが、掘り下げに伴って明確にされた各個人の要素。これは必要だったのか? という否定的な感想を見かけたが、前述の通り演出意図にそぐっているので、そういう意味では「必要である」と私は考えている。そもそも演劇ライチの目当てが漫画的なフィクションを楽しむ路線だった場合は、これらの「掘り下げ」は邪魔に感じるだろう。


 カノンが顕著だが、カノンを生身の人間がそのまま「ストレートの舞台で画面構図固定の制限の中」演じれば、浮きまくると思う。これはゼラもそう。ミュージカルのような、歌という非現実的要素が加われば、ある程度は緩和できるかもしれない。私は歌劇版は見ていないので想像でしかない。

 ライチをゼラの子供(人形)、カノンをお父様の子供(人形)、という対比構図に落とし込んだことは、単純に相関関係の美とするなら当然やるべき内容だと感じた。漫画のカノンはそれこそ「フィクションの人間」であり、今回の光クラブメンバーに対して浮いてしまう。ゼラを浮かせないようにしたのに、カノンが浮いたらバランスが悪い。

 そのうえで、ライチがカノンの過呼吸の場面で流暢に喋ったシーン。ここは「光クラブで子供が子供を助けている様子がライチのプログラムに落とし込まれている=ライチにとって人間とはこういう姿と埋め込まれている」という点を連想させて、涙がでた。デンタクもこういう場面を見ていて、人間の定義に埋め込んだのかもしれない。

 カノンとライチもまた、子供が子供を助けようとしている姿なのだ。だが子供に子供は助けられないから、両方が助かることはできなかった。カノンがライチに殺させたのだと、しっかりゼラに言わせるあたり、本当に徹底している。あの場面に、そうではないと教えて助けてくれる大人はいないのだ。だから、カノンの弱さに加え、あなたはあなた、私は私と言える意志表示の強さは、今回の演劇において必須である。男の子たちは個人の線引きを失ってしまって、悲劇に繋がったからだ。相関関係のアップデートに関しては、この線引きのできてなさを明確にする意図があるかもしれない。


 そういう意味で、ニコがジャイボとゼラの情事を目撃しないこと、タミヤと対関係になっていることは、演出の目的に合致してい流と思った。ニコにとって真に重要なのはゼラではない。それは過程の話であって、ニコの目的は自己肯定感の確立だ。その自己肯定感を最も邪魔する相手は、己に近く己と絶対に違うタミヤだ。

 タミヤは家庭状況の情報はおおよそ漫画通りだが、妹のあれやそれやが未遂に終わったのは見ていてホッとした。冒頭から一人ゼラの洗脳(洗脳ではないとは思う)に納得していない。というのも、洗脳ではなくタミヤはそもそも、カノンと同じく己と他人の線引きができているからだ。それは、家庭環境に不和がない安心感がベースにあり、それ以外の子供たちはその安心感を持っていない。だからタミヤの訴えを、他のメンバーに納得させるためには、そもそもの課題として「光クラブ以外の場所に絶対的な安心感を得る」ことが不可欠であり、それは解決しない問題なので、タミヤの訴えは届かないのだ。


 ゼラとジャイボの関係もそういった意味で顕著である。この二人は加害の側面が大きいため、意識して要素を分離する必要がある。

 ジャイボは出奔状態にあり、ゼラに執着する。ジャイボのゼラへの絶対的な愛情は、一見するとゼラが求めているもののように見える。ゼラがジャイボで満足していればこんなことは起こらなかったのではないかと、ともすれば思うかもしれない。だがそれは起こり得ない。

 ゼラの最も重要な問題は「絶対的な安心感」の獲得であり、それは「母性」であり「女性」であることが重要だ。性的にヘテロだからという部分が干渉しているのではない。本当なら大人の女性が良かったのだろうが、冒頭の先生の背景が追加されて説得力が付加されたように、ゼラは「大人に対する不信感」を拭い去ることができない。なので探し求める相手が少女となり、「子供に子供は助けられない」という問題とバッティングする。結果この物語の中でゼラの問題は解消されない。だから、ゼラがジャイボを相手にすることで納得することはないので、「ジャイボでいいじゃん」とはならないのだ。

 タミヤに対して常川として執着が向いているのもいい。ゼラはタミヤに対して嘘をついたことはない。というかゼラは一切嘘を言っていない。ゼラとして喋っているときですら、嘘ではない。言葉通りの感情を向けているのに、ゼラとして劇的に喋っているせいで、タミヤにはあまり響いていない(真に受けられていない)のが、この二人のすれ違いとして悲しい要素だ。ニコはこの点に関しては、タミヤに向けられたゼラの感情を正しく理解していた可能性が高い。


 役者的な話をすると、タミヤとゼラで役者の声の力がはっきりキャラクター性にあっており、タミヤの眩さ、真摯さは特にゼラ・常川の揺らぎに対してブレることがなく、対比として良かった。ゼラ・常川に関しては、牧島くんの本領発揮というか、一作品で三役分くらいの幅を見せてもらって、こんなにいいんですか? という気持ちである。引き出しフルに使って演劇ライチのゼラ・常川を生きてくれて本当に嬉しかった。期待の百倍よかったし、便器が刺さる場面では、「もしかして死なれた経験があります?」というレベルの呻き声の迫力で慄いた。今後なかなか聞けなそうな演技で、生で見れてよかった……という気持ちが大きい。初回限定Blu-rayは当然買いましたが。


 雷蔵の「仲良くしたい……」も、ヤコブの激昂の場面も胸にくるものがあった。彼らにとっては正しく光クラブはセーフスペースであっただけで、加害に加担したものの被害者の割合が大きい。雷蔵ちゃんが顔を剥がされた後しばらく生きていたのも生々しい。即死できないという現実的な生生しさだ。


 光クラブメンバーの美しい少女の時とはのやり取りや、マジだとかの言葉遣い、追い詰められた時のどもり方など、生身の人間に落とし込みが絶妙だった。もちろん、演劇ライチにフィクションよりの期待を寄せていたのなら、想像と違う路線で驚くだろう。ただ、この舞台はこうやると決めた方針に対して非常に真摯に向き合い、漫画版をリスペクトした上でキャラクター全てに細かくディティールを落とし込み、役者さんはそれに見事に応えている、非常に見応えのある舞台だと思う。素直にクオリティが高く、満足感がある。ただ、そのクオリティがゆえにモツ・死・痛そう!という要素がつきまとうので、万人に勧められるかは怪しい。デップル2とかヴェノム1の事故怪我とか見れない人は厳しいかも。


 でも、それら全て漫画リスペクトゆえなので……とろくろを回して感想を締めることとします。


※配信も見るので、配信視聴後追加するかも。