公開投稿

2025.05.13 21:00

目には見えない話 2025.5.12

 子どものころ、見えている色が人それぞれ違うものかもしれない、ということに気づいたとき、とても悲しくて泣いたことがある。青色が認識できない少年の話だったか、はたまたどこかの画家の話だったか、もう忘れてしまったけれど、自分の目ですら見ているものが確かじゃないかもしれないことがひどく怖いと思った。


 自分の「赤色」が誰かにとっての「青色」かもしれない。なんていうのは杞憂で、実際、人間同士そこまで違いはない。でも、怖かった。感じている恐怖でさえ本当に正しいのか分からない。そうやって、疑う対象が「目に見える景色」から「自分自身」になっていって、次第に身動きが取れなくなった。


 人間には認識できないだけで、カラスは実は真っ黒じゃないとか、モンシロチョウは雌雄で色が違っているだとか、見えていないだけで隣には知らない世界がある。月の光は地球に届くまでに1秒と少し、時間がかかる。太陽だと8分と少し。見上げた世界はずっと過去のものだった。大気圏の外側は別の世界だ。(きっとこれを浪漫と呼ぶ)


 今となってはこんなもの些細な問題でしかなくて、人の数だけ世界が違って、なんなら動植物含め生物単位で同じ世界を生きていない。ただ、ほんの少し共通する言語を持っている誰かと、ほんの少しお互いの世界を分かち合っているだけ。僕たちは同じ世界を生きてはいないけれど、同じ世界で生きている。


 自分にとって大事な何かが他人にとっては些末なもので、誰かにとって重要な何かが、自分の視界には映らない。人は意識できないものや想像できないものに対して、無慈悲で残酷だと思う。悲観的になることも、多分、同じくらい残酷だ。世界は目には見えないむごたらしさが溢れている。

 誰もが同じ景色を見ていない。だから共有したいし、分け合いたい。誰かの理解に関心を持つことでようやく世界になっている。