当歴史創作『崩壊王朝』でよく出すであろう人物の解説シート一覧です。画像内の文章はすべて史実に則っていますが、素人の読解であるため間違いも含まれるかと思います。その際はお手数ですがご一報ください。

また当ページで一行空けて追加されているテキストは、『崩壊王朝』におけるオリジナル幼年期設定です。ご了承お願いします。

後梁

朱溫(852〜912)

唐末群雄の一人で、後梁の初代皇帝。


双子の姉妹がいる。父親を殺害し、遺体を塾舎ごと燃やした。周囲には自殺と思われている。

後唐(晋)

李克用(856〜908)

唐末群雄の一人で突厥沙陀の首長。朱溫の宿敵。


沙陀の首長朱邪赤心の三男。産まれた頃長兄が亡くなり、容姿も相まって幼少期は冷遇されていた。龐勛の乱で次兄が亡くなると後継に。以降人が変わったようになった。

李存勗(885〜926)

李克用の後継で後唐の初代皇帝。

李嗣源(867〜933)

李克用の仮子の一人で、後唐二代目皇帝。

後晋

石敬瑭(892〜942)

後唐の将で李嗣源の娘婿。後晋の初代皇帝。


両親の生前は人を助け矜持を持つ少年だったが、死後弟たちと自らを守るため媚びを覚え、卑屈になっていった。

後漢

劉知遠(895〜948)

石敬瑭の臣下で、後漢の初代皇帝。


幼少期、失踪した母を探して彷徨っていたところ、かつての石敬瑭に助けられた。以降彼に仕えることを誓う。

母の失踪前は快活で明るい性格だった。

後周

郭威(904〜954)

劉知遠の臣下で、後周の初代皇帝。


父の存命時はそれなりに恵まれていたが、死後母が常氏に世話になってからも特に食うには困らなかった。常思とはその頃からの仲。

柴榮(921〜959)

郭威の養子で、後周の二代目皇帝。


父に育児放棄され、自分の力で生きていた。そんな状況を知った叔母に半ば強引に引き取られ、養子になった。

契丹(遼)

耶律阿保機(872〜926)

中原の北の遊牧系、契丹のトップにして建国者。


三歳児の体格で産まれすくすく育ったが、成長期が来なかった。

耶律堯骨(902〜947)

耶律阿保機の次男で契丹(遼)の二代目皇帝。


幼少期、兄とはとても仲が良かった。

趙匡胤(927〜976)

柴榮の臣下で、宋の初代皇帝。

趙匡義(939〜997)

趙匡胤の弟で、宋の二代目皇帝。

十国・その他

高季興(858〜929)

元梁将で荊南の建国者。


高季昌が董璋を拾い、董璋が孔循を拾った。年は離れているが兄弟の如き絆で、離れても変わらない。

馬殷(852〜930)

唐末群雄の一人で、楚の建国者。


錢鏐(852〜932)

唐末群雄の一人で、呉越の建国者。


若白髪の家系。幼少からコンプレックスで頭を剃った。

楊行密(852〜905)

唐末群雄の一人で、呉の建国者。

李昪(888〜942)

呉臣である徐溫の養子で南唐の建国者。


楊行密に引き取られてすぐ、楊渥に暴行されその一環で髪を切られた。以降髪が伸ばせなくなり、徐溫の提案で飾りやつけ毛で誤魔化している。

王審知(862〜925)

唐末群雄の一人で、閩の建国者。

劉隱(874〜911)

唐末群雄の一人で、南漢の実質的な建国者。


弟の母の段氏とは仲が良く、出産の報せを聴き駆けつけるも遅かった。自身の母と弟を引き離したかったが上手く行かなかった。

劉龑(889〜942)

劉隱の異母弟で後継。南漢の建国者。


何だかんだ韋氏にも劉隱にも可愛がられたため自己皇帝感は高めに育つ。とはいえ弟として兄の子を補佐する意志は強かった。

劉崇(895〜954)

劉知遠の弟で後漢の将。北漢の建国者。


劉知遠、劉信ともに実は異父兄弟。父親同士が兄弟なので従兄弟でもある。その事実を知り一時無頼となったが、軍で兄と再会し和解した。

王建(847〜918)

唐末群雄の一人で、前蜀の建国者。


孟知祥(874〜934)

元後唐の将で、後蜀の建国者。

李茂貞(854〜924)

唐末群雄の一人で、鳳翔(岐)地域の支配者。該当地域の支配が一代限りゆえ十国に数えられない。

与太設定集

創作でしかない。